学習における「先生」「講師」は、立派な発信者です。
文字であれ、話し言葉であれ、言葉は総じて人々の目にも耳にも、そして心にも届くものです。
言葉は癒しや勇気づけにもなりますが、時として凶器にもなる【諸刃の剣】と言えます。
発信者は、日ごろから生徒や保護者の方、周囲のスタッフたちに対して、向ける言葉が【言葉の暴力】という凶器にならないように気を付けています。
そこには「思いやりの心」がなくてはなりません。
今回は、先日、私が偶然YouTubeにて見かけた、とある動画発信者さんがコメント欄にて【独裁者】として君臨している場面を目撃してしまったことを織り交ぜながら、言葉の力についてお話をさせていただきます。

◆発信者が独裁者と化すYouTubeのコメント欄
YouTubeには、実に豊富なジャンルの動画があふれております。
学習の参考にするために見た動画がもとになって「おすすめ」として上がってくるものの中には、その他に見たことのあるリラックス系のエッセンスも混ざっているのか、スピリチュアル系も登場することがあります。
ふと、そうした中から、とある動画発信者さんによる動画のコメント欄をのぞいたところ、動画内容に関して冷静にコメントを寄せられていたユーザーさんに対し、発信者さんがとんでもない感情的な物言いでユーザーさんを威圧していた場面を目撃してしまいました。
そのユーザーさんだけではなく、複数の方が、動画内容に関して同じように冷静かつ客観的な情報としてのコメントを寄せられていたのに、発信者さんは以下のように怒り狂っておられたのですよね。
「喧嘩を売るためのエビデンスもないのに、得体のしれない情報を鵜呑みにして言いがかりをつけるな!!
あなたは他者の言っていることを隠れ蓑にしている卑怯者だ!!」
エビデンスとは「証拠」や「証拠を裏付ける理論」になりますが、怒り狂う発信者さんは一体何をもとにして動画を発信していたのか……となりますと「自分の主観・思い込みと、自分に対して絶対的な崇拝コメントを残し続けるユーザーさんから湧き上がった疑問」になります。
つまり、この発信者さんこそ、どちらかと申しますと「他者の言っていることを隠れ蓑にして、自分の得意なツールを使って自己主張している=エビデンスが存在しない」ということを実践していると言えます。
更には何よりも、この発信者さんのお言葉の示される【卑怯者】とは、他ならぬ発信者さんご自身を示すという皮肉につながってしまっているのですよね。
人間と言うものは、第三者目線から冷静かつ客観的なコメントを提示されたとき、それが【自分が決して触れてほしくない核心】を突くものであればあるほど、自己防衛のために、理性を失って他者を激しく攻撃します。
それを悟られたくないがために、マウントを取る言動で相手を傷つけ、とにかく意味不明な圧力で相手を屈服させるのですよね。
それで相手をやり込め、勝ち誇った気分になるのでしょうが、一体何が残るでしょうか?
特に、YouTubeに限らずSNS等もそうですが、こうしたものは目に見える場所で「文字」という形で不特定多数の人々の目と心に残ります。
怒りや相手を屈服させたい感情は【負のエネルギー=マイナスエネルギー】となり、不特定多数によろしくない影響を与え、決して気分の良いものではなくなってしまいます。
この場合、発信者さんは
「そういうこともあるのですね。真相の行方を見守りたいですね!」
と切り返しができれば素晴らしかったと思われますし、それでこそ発信者さんの主張が【YouTubeという媒体を借りるチャンネルのエンターテイメント】であることが保たれると言えます。
ところが、心の余裕をなくし、一方的に「私の言うことは絶対だ!!私に逆らうものは、すべて敵!!」とばかりに相手を委縮させる言動を大々的に多数のユーザーさんや、それを見ていた視聴者さんに向けてしまったのですよね。
お気の毒なことに、罵倒されたユーザーさんは、わけもわからずにうろたえてしまわれ、
「ご不快な気持ちにさせてしまい、申し訳ございません。
もうこんなことしません。
これからも貴方様の配信を拝見いたします」
……と、まるで土下座をするかのようにお詫びしておられました。
いくらチャンネル登録者数が「ライバル発信者さんたちに比べて多い」という数字であっても、人は本質を見ています。
これでは、登録者数が減っていったとしても「減らされた!!何かの陰謀だ!!私が正しいことを言っているのが都合悪いからだ!!」と喚き散らしても無意味でしょう。
それこそ、発信者さんがユーザーさんに浴びせた「エビデンス」が存在しない被害者意識なのですから。
◆教育関係者として伝えたい「相手への思いやり」
これは、私たち教育関係者にも当てはまりますし、親子関係や人間関係にも当てはまります。
よく言われますのが、「先生」「講師」と呼ばれるサイドの人は、生徒に対して「なんで、こんなのもわからないの?」「そんなだからダメなんだよ」という言葉を浴びせるのは言語道断、ということです。
生徒たちからすれば、わからないから授業にきているのですし、問題が解けない理由や宿題ができなかった事情があるのです。
また、生徒たちは、ときとしてこちらの知識や認識に及ばないところに着眼点をもち、独創的な発想で質問をしたり、問題を解いたりすることがあります。
算数でよく見かける光景ですが、複雑な計算や図形の問題を、今の授業で学習している方法ではないやり方で解く生徒もいます。
ここで「今、そのやり方の授業をしていないんだから、こっちのやり方でやって」と頭ごなしに否定してしまうと、どんなことが起こるでしょうか?

その生徒としては、「今までのやり方を混ぜ合わせたら、こんな解決方法が生まれたよ!」という実験成功の喜びのような気分でいたのかもしれませんし、それは素晴らしい【考える力の表れ】と言えます。
しかし、それを「こちらの都合」で排除することは、その生徒の【考える力の表れ】を否定することになります。
むしろ、
「その発想はなかった!すごいや、それでも行けるんだね!
じゃあ、試しに、今回の授業で出てきているやり方でも計算してみようか?
同じ答えになっていたら、いろいろなやり方があるっていうことになるね」
と、こちらも新たな発見を楽しむことが大切になります。
私は、よく
「授業とは、一方的に先生や講師が押し付けるのではなく、生徒と一緒に作ってゆく学びの場である」
とお話をさせていただいております。
先述の例の発信者さんとユーザーさんに置きかえますと、コメント欄は「発信者さんとユーザーさんで一緒にコンテンツを作ってゆく発見と楽しみの場である」となります。
どの科目におきましても、生徒から「自分は、この現象についてこう思った」ということを伝えられたとき、
①先生や講師であるプライドが邪魔をして「いや、その情報、間違っているから!」と感情的に跳ね返すこと
②「そんな見方もあるんだね。先生は、こうだからこうかなと思っているよ。いろいろな見方があるから、他にもそれについての見方が出てきたら面白いね。いい機会だから、そんな疑問をもったときには、いろいろ調べてみるのもいいよね」と受け入れて共存すること
果たして、どちらが【人として豊かであり魅力的である】と言えるでしょうか?
他にも、授業中とはいえ、先生や講師と生徒の1対1のやり取りであっても、そのやり取りは他の不特定多数の生徒やスタッフの耳に入ることが多いものです。
どこか一か所の授業の雰囲気が排他的で独裁的になってしまうことで、他の授業にも良い影響を及ぼすものではなくなってしまうことも意識しなくてはなりません。
【参考記事】
◆【お互いへの思いやりの心】なくして発信は届かない
本当に「発信を通じて、いろいろな人に届けて、受け取ってくれた人のきっかけになれば嬉しい」と思えばこそ、私たちは様々な形で発信します。
そのために、心を言葉に乗せています。
その想いを正しい方向へ向けなくては、それは【狂気が生み出す凶器】となり、カルト宗教と同じになってしまいます。
(狂気と凶器……奇しくも、同じ読み方をする同音異義語ですね……)
また、言葉に乗せたエネルギーは【言霊】と言うだけあり、めぐりめぐって循環され、いつしか自分に帰ってまいります。
「情けは人のためならず」という言葉がございますが、いつしか循環されたエネルギーを受け取るならば、せっかくならば素晴らしくて暖かいものが嬉しいですよね。
今後も発信者として、豊かさなエネルギーを言葉に乗せて循環させてまいります。

🌟ココナラさんでの学習サポートサービス🌟
🌈教材販売のご案内をしております🌈
📝オリジナル教材実物販売📝
※こちらのブログにはアフィリエイト広告を利用しております
![]()